日本から来た教授の話を聞いて | 勾践の館~寧波滞在記~

日本から来た教授の話を聞いて

今日は東京の大学から先生が来て、大学で講演してくださった。
先生は、よく中国、特に雲南省に来られて、
少数民族の調査をされているそうだ。

今日の講演のテーマは「長江文明」。
長江中~下流域で発達した稲作文明についてである。

稲作文化がどこで発祥し、どのように広がっていったか、様々議論があるが、
近年になって長江流域で炭化した米が発掘され、注目されている。
先日行った河姆渡遺跡もその一つである。

長江文化の話は、それはそれで興味深い内容だったが、
もっと面白かったのは、先生がなぜ中国の少数民族について
調査しているかということを話したところだ。

要約すると、このような話だ。



少数民族の多くは、歌を大事にしている。
歌で求婚したり(これは日本の平安時代に似ている)、
けんかや裁判したりもする。
彼らは歌うことによって神の世を疑似体験し、神と一体化するのだ。

歌が日常社会において人と人との交流の潤滑油として働いているのだ。

 

現在日本では、「ひきこもり」という現象がある。

人間関係に疲れて、家に閉じこもってしまうという現象だ。

日本は社会が多様化し、また人間関係が多様化して、

精神的に住みにくい社会になってしまった。

そんな時、彼ら少数民族のように歌を歌ってみるというのはどうだろうか。

歌には厳しい人間関係を緩和する力がある、・・・というような内容だ。

 

 

先生の話は、私のように日本で教職を目指す私にとって

非常に興味深いものであった。

確かに私の経験上、音楽には強い力がある。

中学校の時、みんなで合唱すれば、クラスが一体化したように感じた。

合唱がクラスの団結に一役買っているのである。

 

しかし、現在のゆとり教育では「音楽」の授業はより軽視されてしまった。

中学校では1年間で、1年生で45時間、2・3年生で35時間になった。

歌にそのような力があるとすれば、みんなで歌う機会がなくなるということは、

逆に生徒たちのゆとりを奪うことにはならないだろうか。

「ゆとり」は、時間的なゆとりだけでなく、精神的なゆとりも指しているはずだ。

現在のゆとり教育は時間的なところだけを重視して、

精神的なところはそれほど補ってないように思われる。

 

現在は中国にいるので、日本にいるより詳しい情報は伝わらないが、

最近はゆとり教育に対する批判が高まっているようである。

教科書にも発展的な内容を盛り込み、以前より厚みを増したそうだ。

いずれにしても、勉強で疲れた、あるいは人間関係に疲れたとき、

そのはけ口として、音楽という機会は非常に重要な機会だと思う。